名前1



 ドアを開けると、強い風が吹き込んできた。春らしい天気だ。


「それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃませ。お夕飯はいつごろになります?」
「八時までには戻る。飯は先に食べててくれ。材料は冷蔵庫にあるから……ついでに俺の分も作っておいてくれると嬉しい」
「はいです」


 と、ここで私は一抹の不安を覚える。
 考えてみれば、部屋に残していく女は今朝出会ったばかりの人間で、さらに言えば名前も知らない。つまり、新しいタイプの強盗、という可能性も無いわけじゃないのだ。もしくは詐欺師か。
 部屋に貴重品はそれこそ本ぐらいしか置いてないから、特に問題は無いのだが……帰ってきたら部屋が空っぽ、なんて事態は避けたい。
 一旦追い出して、私が家に帰ってきたら呼び戻すか? いや。しかし、寝ている時も部屋に居るのだから、強盗しようと思えば簡単に寝首を掻ける。そもそも、今朝私が起きた時には部屋に居たんだ。彼女が盗人なら住人が起きる前にとんずらしているだろう。


「……」
「どうしました? 遅れちゃいますよ」
「いや……お前を部屋においておくのが少し不安になってな」
「まさか、私が一人で留守番できないとでも思っているのですか? 言っておきますが、私はあなたよりお姉さんですよ。ただし、一人のレディとして、実年齢には言及しませんが!」
「……まあいい。……ん。そう言えば」
「なんですか?」
「お前には、はなはだ不自然だが名前が無い。呼ぶときに困る。ずっと『お前』と言うわけにはいかないだろう?」
「そう言われてみるとそうかもしれません」
「そう言う訳で、帰ってきたら便宜上の仮名を決めよう。考えておいて」
「はいです。参考までに、と言うか今まで聞かなかったのもおかしいのですが……あなたのお名前は?」
「そうか。まだ言ってなかったな。みやこだ。京都の京の字で、京」
「いい名前ですね。では、京くん、行ってらっしゃい」
「『くん』付けか……行ってくる」




「ただいま」
「おかえりなさいませ、京くん。ご飯にします? お風呂ですか? それとも、わ……」
「その台詞は未来の旦那にとっておけ。俺に使ってもしようがない」
「そうでしょうか?」
「そうだ。飯はもう食べたか?」
「ちょっと不服です……まだ食べてませんよ。食べましょうか」




「それで、名前は決めた?」
「はい。卑弥呼なんて……」
「阿呆。俺の部屋を邪馬台国にでもする気か? 支配者はお前になるのか? 呼ばれる方はいいかもしれないが、呼ぶ方の気持ちになってくれよ」
「う〜む、弱りましたね〜」
「……楽しんでるだろ」
「はいです」
「……」
「……♪」


 名前。名前が無い人物に私がこれまで会ったことがあるか?
 無いはずだ。問えば、誰しも自分の名前を返した。
 名前。


「そうだ」
「ん?」
「きょう、なんてどうでしょう?」
「きょう? どんな字?」
「古い都と書いて、きょうです。ちょっとお洒落でしょう?」
「へえ……いいんじゃないか。呼ぶのも楽だし」
「えへへ。今日から私は古都です。ただ、これはあくまで仮の名前。私の目的をお忘れなく」
「名前を探す……よく分からんが、どうしてかこの女を、受け入れちまった……」
「何か言いました?」
「いや……」


 名前。名前か。
 私は私の名前を覚えている。しかし、今まで出会った、すれ違った人々のうちの、ほとんどの人間の名前を覚えていない。
 忘れてしまった名前はどこへ行くんだろう?


「さあ、ご飯も終わりましたし、お皿を洗いましょう。さあ。……京さん?」
「……っとすまん。なんだ?」
「もう。考え事ですか?」
「いや。……少し、このオムライスのレシピを夢想していた。旨かったよ」
「ありがとうです。なんならレシピ、教えましょうか?」
「俺が作っても、こうはいかんだろう」
「……そんなに下手なのですか」
「……悲しいけど、な」